子どもの頃に夢中になって読んだ本はたくさんありますが、最初にハードカバーで自分で親に頼んで全巻揃えたのは、ドリトル先生シリーズだったと思います。

一番はじめにもらったのは、なぜか全13巻の8巻あたりだった「ドリトル先生月へゆく」でした。小学2年生か3年生くらいで、しばらくは積読状態でした。小学4年生の時に肺炎で1週間ほど入院しました。入院した初日はぐったりしていましたが、わりとすぐに元気になって暇でしかたなく、ドリトル先生シリーズを全巻揃えてもらいました。絵は微妙に点描のような挿絵で少し気味悪さもありながら、井伏鱒二の訳はユーモアがあり上品で物語に引き込まれて夢中で読み進めていきました。

ドリトル先生は、動物とお話ができるのですが、犬と話す時には尻尾に見立てたほうきをお尻にあてたり、全身を使って会話をします。いろいろ筋が通っていて想像がかきたてられました。沼地をすすんでいく場面ではジメジメとした湿度を感じ、月へ行くときに宇宙空間を飛ぶときは、ひどい頭痛がするので、月の大きな特別な花の中に頭を突っ込んで苦しさに耐えながら旅をします。詳細にわたって筋の通る説明がされているからこそ、物語に引き込まれるのだなと、今になって思います。そして、〇十年前に読んでほとんど忘れているのに、そんな物語の中で感じた体感を覚えているのです。改めて思い出してみたらそんな事を思い出してすごい!と思います。(場面の事は記憶だけで語っているので、間違えてるかもしれません)

空想の話であっても、細密に描写されていればリアルに感じて、絵がなくても映画を観たかのように心に思い浮かべる事ができます。物語というのはそういうもので、作者の中には映像としてその世界が記憶されているのだと思います。

プレバトという番組の俳句のコーナーで夏井なつき先生がよく言うのが「映像が目に浮かぶように」という言葉です。良い文章というのは、文章だけで映像がありありと目の前に浮かぶものなのでしょう。

大人になってから、井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」「珍品堂主人」にはまり、さらにしばらく経ってから「ドリトル先生」の訳者が井伏鱒二であることに気が付きました。外国の文学は訳者によって全く印象が変わり、有名な作品の同じ作者の作品でも訳者が変わると全く印象が変わってしまいます。井伏鱒二の翻訳のドリトル先生は名作です。引っ越しの時に本をすべて出すことができずに、どこかにしまいこまれているはずなので、探して読み返したくなりました。